ライトブログ

ライトノベルどころか、小説を読むのが苦痛なほう。フィクション=うそ、なんだから、わざわざ手間ひまかけて、なんで読まないといけないのか、読んでてむなしくなってくる。読まないといけないわけじゃないが、なにかすごくおもしろいことが書いてあるのではと、一応期待して、気になることは気になり、買って、そのうち読まないとと思い、積んである。積んだままで、しばらく読まないが、なぜか、あるとき突然、読む気が高まり、勢いづいて、手にとって読み始める。そういうときは、時間が空いて気力が充実してきたときなのだろうか。しかし、たいてい、途中でつまらなくなり、なんだか苦痛になる。しかし、途中でやめると、結局、読まなかったことと同義であり、積んだ本がかたずかないし、中途半端は知的負けみたいでくやしいし、いままでの読んだ時間が無駄になる気がして、最後まで読む。最近、たいてい、このパターンが多い。基本的に、小説って、一部のマニアのもので、つまらなければ、すぐ投げ捨てていい、とくに読む必要のないものなのだろうと思う。(サマセット・モーム『世界の十大小説』Wiliam Somerset Maugham,Ten Novels And Their Authors, 1954 にもそんなことが書いてあった。英語題名は必要ないが、検索したらでてきたので書いておく)。フィクションが楽しみたいなら、受容コストが低いというか、楽に摂取できるマンガ、アニメ、映画などほかにいくらでもある。(マンガですら読むのがめんどくさいくらい)。どちらかといえば、小説不必要派なのだ。(リアルなノンフィクション系の情報はむしろ必要なので、活字否定ではない)。しかし、ごく一部の小説で、小説でなければ表現できない世界を描いているのは認めるので、完全にも小説を否定できないでいる。でも、それは、本当にごく一部だし、その世界にどういう意味があるのか考えるとわからなくなる。具体的には、吉本ばななの「とかげ」という短編小説集の雰囲気は、マンガ、アニメ、映像では、なかなか、だせないように思う。あの雰囲気、世界はなんなのかまだ、よく分析はできていない。
 そんな感じで、ライトノベルはあまり読まないが、ライトノベルとはなにか、ライトノベルがはやる社会現象とかには興味がわく。
ライトノベル「超」入門    ソフトバンク新書ライトノベル「超」入門
6点
 メディアミックスのせいか、ライトノベルのタイトルを見ると、読んでないけど、アニメで見て知っているのが多い。
○P65 革新的変化は、まず少女向け文化の中でおこる。余波が10年から20年後に少年向け文化で受容されて変動する。萌えってやっぱり少女マンガが源流なのか?
◎P130 ゲームという「方法・視線」が近代的な文学の登場人物をキャラに変えてしまった。ゲーム源流説。ゲームは物語が分岐して、エンディングがいくつもある。プレーヤーが選択し、やり直しも可能になる。プレーヤーが選択した責任をもち、トラウマなどの内面を引き受ける。そこでは、近代文学のキャラクター=何かを選択し決断する、内面やら人格やらと持った人物から、ゲーム的世界観の中のキャラクター=任意の状況における所作、きめ台詞の束、分岐する複数曲線の束となる。
 あたりが、考察と言った感じで、深みがあって面白かった。(あまり書くとネタバレなので書かないでおこう)。あとは、肩のこらないエッセーみたいな感じで、浅く広い情報が書いてあり、気楽に読める。