デス note

劇場版ポケットモンスター/アドバンスジェネレーション ミュウと波導の勇者ルカリオ
2005年【日】 上映時間:103分   子供なら6点、大人なら4点
ビデオにとってあったので、見た。ビデオテープがダメなため画質が悪すぎ。テープのせいで点数が悪くなったかもしれない。アンフェアだけど。
■ミュウが唐突に苦しみだしたり、話のつなぎが不自然なところがあるし、話も単純すぎて、退屈だった。が、単純だったりファンサービスがないのは、子供向けだからしょうがない。しかし、サトシたちとポケモンのおなじみのキャラがでてきて、シリーズとしての安心感がある。サトシは、ピカチューとの関係を聞かれて友達だと答えていた。ポケモンとの友情というのは、なんどか強調されている。あぶなくなると、おまえらだけでも助かれとポケモンを逃がすとか。ジャンプの「友情・努力・勝利」路線が今も生きている。他のポケモンも、変わった形態のものが多く、変な妖怪がいっぱいでてくる「千と千尋の神隠し」をい出した。こういうフリークスというか奇妙なポケモンが大量にでてくるのも人気の一つなのだろう。探検家のキッドサマーズとかルカリオとか髪型が変すぎるが、これはインパクトがあっていいのかもしれない。ルカリオの犬っぽい顔は、どこか精悍でいい感じ。
■あらすじ(いいかげん) 封印されていたルカリオが、サトシの波動に反応して(ちがうかも)、よみがえる。波動をもつものに反応して、過去の映像を映し出す時の花によって、断片的に過去が映し出され、過去にあった、人間(アーロン)とポケモンルカリオ)の誤解がとけていく。ルカリオが封印されてしまったのは、アーロンが、どこまでも自分についてくるルカリオを巻き込みたくなかったから。アーロンは自分の波動を、崩壊する世界の始まりの樹にあたえて、自分の命とひきかえに、戦争を止め、世界を救ったのだった。
○サトシたちは、ルカリオに案内されて世界の始まりの樹に向かう。ミュウにつれられて、今は、樹にいるピカチューを迎えに行くためだ。しかし、樹に異物とみなされ、ガーディアンや白血球のようなものにおそわれる。が、ミュウによって敵ではないと樹は教えられ攻撃をやめる。ミュウ=世界の始まりの樹とリンクしているのだ。突然、ミュウが苦しみだした。樹も崩壊していく。サトシとルカリオは波動をミュウにあたえ、樹を助けようとする。サトシをはじきとばし、ルカリオは命をかけて波動を出し、ミュウと樹を助ける。

丹波の死で考える。死はなぜこわいのだろうか。楽しいかもしれない将来の希望というのが、なくなるから? あなたは、明日から500年間、眠りにつきますといわれたらどうか。失うものが多いからこわいが、未来を見れるという希望があるので、死=永遠の眠りほどこわくない。死は、永久に希望がなくなるからこわいのだろうか。永遠というのがポイントだろう。死は、眠るのと同じだと思うが眠りは一時的でいつかめざめる。死は、永遠に目覚めない眠りのようなもの。永遠のヤミの中というイメージ。永遠という重さがある。
■しかし、死を恐れるのは生きているものたちだけであって、死んでしまえば、感覚がないので、こわくもなんともない。死者の立場で、死の当事者として、考えると、死は、たいしたことではないのかもしれない。人間の命も地球より重いといえば、重いし、軽いと言えば軽い。考え方次第だ。ただ、死を恐れるのは、本能的なものなので、そういう理屈ではないのだろう。犬でも、かみなりがおちると、びくびくしている。死は本能的にこわいが、理屈で考えると、どうとでもいえるもの、むしろ、死をえらぶ人もいるという状況なのだろう。
■死を選ぶのは、やはり希望がなく、苦しいので、死んだ方がましと思うからだろうか。うつ病の人とか特殊な精神状態をのぞいて。損得を計算して、死んだ方が得という冷徹な計算もありえる。生者は、死をおそれる本能を超えるほどの苦しみを見て、ただ、こわいと思う。ある人は、ある死亡記事を見て、ざまあみろ、おれよりはやく死んだと喜んでいたが。だから、正確にいうと、生きているものは死者に対して、こわい、優越感、喜び、優越感を持つことへの罪悪感など複雑な感情をもつ。(フロイトの喪の仕事とか、詳しい分析があったが、ちょっと憶えてない。調べるのがめんどくさい)。死より、その複雑な感情の複合体のほうが気持ちが悪いくらいだ。ただ、死ぬのなら、単純だが、ざまあみろといわれたら、死ぬに死ねないだろう。ただ、バカなだけなら、自分でもバカだしと思えるが、他人にバカといわれると、たとえ事実でも腹がたつのと同じだ。(笑) 不思議なものだが、感情をあおるというものは、あるということか。
 それは、ともかく、もっと、微温的な死というのもあるだろう。なんとなく生きているのがめんどくさくて死ぬ。そんなやついないのか? (めんどくさがりのオレには、理解可能なんだけど)。客観的な統計とか参考にしないと、妄想にちかくなってくる。客観的データを参照するのがめんどくさいのだが。
■死というのは、この世からの卒業ともみなせる。この世のすべてからの別れになる。これは、確かにきつい。救いは、死んでしまえば、きつくもなんともないこと。死んでるし。それに、むしろ、うざいこの世というもの、から別れたい人もいるだろう。
■テーマがハードすぎて、どう結論を書けばいいのか。そもそも、死というテーマがなぜハード(こわいとか)なのかというのが、もともとの疑問だった。やっぱり死はこわいという事実は、くつがえせそうにない。たとえば、あなたは、ガンです、余命3ヶ月といわれたら、誰でもショックだろう。どうせ、生きていても社会にとってどうでもいい人が大半だし、数十年死ぬのが平均より、はやいだけなのだろうが。死より、ガンで、痛みでのたうちまわって、生活もボロボロになるほうがこわいような気がする。そう考えると死よりこわいことはいくらでもありそうだ。
■死というのは、主観的には、すべての停止になる。自分だけではなく、世界すべての死だ。。しかし、死後も、人にのこる記憶を気にする人もいる。そう言う人は、死にしても、名誉ある死をもとめる。中国では、歴史教とよべる思想があるそうだ。歴史の中に名を刻むことで永遠の命をえるという。
 ……結論はでそうにない。というかどういう結論を望んでいるのか。丹波が霊界はあるといったように、死の恐怖を理屈で支配したいと思っているのかもしれない。